天ノ川京あま の がわ きょう (33歳)がメガネを外し、垂れ下がる まぶた と長いまつ毛を細い指で押さえながらマンション1階のドアノブに鍵を差し込もうとしたその時、ドアが内側から開き、妻の 明日美あすみ (34歳)が大きな瞳を見開いて夫を出迎えた。片腕で愛猫のソフィーを抱き、唇を嬉しそうに逆への字型に曲げている。こんな時、明日美の次の言葉は決まっていた。
「京ちゃん、あたし、すごーく面白い話を聞いたの!」
「明日の朝でいいかな? もう遅いし、昨晩もあまり寝ていないんだ」
京は出版社でマネー雑誌の編集者を務めている。日付けが変わる直前に新年1月号の編集作業を終え、疲れ切って帰宅したのだった。
「そんなことを言っちゃっていいのかな? 謎めいた話なのよ」
明日美が誘惑するような目をした。
「話してくれたのは 柏木美和かしわ ぎ み わ さんというご近所の方で、あたしのお客様なの。ほら、1丁目の交差点の角に古いお家があるじゃない。そちらに住んでいる方よ」
明日美はフリーのファイナンシャルプランナーをしている。どうやらその顧客から話を仕入れてきたらしい。
「美和さんは病院で事務の仕事をしていて、ご主人は中学校の理科の先生なの。彼女は45歳で、ご主人は3つ上だったかな。それでね。先日、台風で傾いてしまった庭の物置をご主人が取り壊したら、 はんもの みたいな昔のメモが出てきたというのよ」
「判じ物だって!?」
京の眠気が覚めた。判じ物とは文字や絵に隠された真の意味を当てる江戸時代の遊びのことだ。推理小説を愛し推理作家を目指している京は謎の香りを嗅ぐともう我慢できない。
「どうする? この続きは明日の朝にする?」
「明日美、意地悪な質問しないでくれよ。僕の人生に必要なのは君とお金と謎だといつも言っているだろう」
明日美は満足げにうなずき、リビングルームのソファに京を座らせてスマホで撮った写真を見せた。

黄ばんだ紙きれに万年筆の青いインクで「¥5500000↑ 4310、4049、36.40.、046760、1092、96079、3310、1093」と数字が書かれている。「¥5500000」は金額に間違いないだろう。「↑」や他の数字が何を意味しているのかは分からなかった。
「紙切れは きり の箱に大事に保管されていたそうよ。美和さん、メモが気になって夜も眠れないんだって。京ちゃん、その細腕を貸してくれない? あたし、大事なお客様に安らかな眠りをプレゼントしたいの」

週末、京は明日美に連れられて柏木家を訪ねた。家は和洋折衷の造りで、屋根は 瓦葺かわらぶ きだが窓の張り出した洋室がある。京と明日美はその洋室に通され、柏木夫妻と向かい合った。美和は小柄で活動的な印象だ。夫の柏木 夏雄なつお は七三に分けた白髪混じりの髪が実直な雰囲気をかもし出している。
夏雄は桐箱を開け、例の紙切れを出した。実物は明日美が撮った写真より古びて見える。
「柏原さんはこの書き物に心当たりがありますか?」
京の質問に夏雄はかぶりを振った。
「ただ、この万年筆の文字は9年ほど前に死んだ父が遺したものじゃないかと思います。父はこんな几帳面な字を書く人でしたから」
「お父様は何をされていたんですか?」
「父は数学者でした。柏木春樹という名前は学会ではそれなりに知られていて、私が生まれた1970年に『数学賞』を受賞しています。優れた業績を上げた数学者に与えられる賞だそうで、受賞した時、父は30歳でした」
「お父様はその時、賞金を貰いましたか?」
「副賞として100万円を貰ったとか言っていました」
「当時としては大きな金額ですね。使わずに運用していたら......」
「あ!」と明日美が小さく叫んだ。
「着いてきちゃったんだ」
明日美が庭を指さした。背の高い広葉樹の根元に、額にハートマークのある三毛猫が行儀よく座っている。ソフィーだった。
「あの猫ちゃん、天ノ川さんのところの? だったらこちらに連れてきていいわよ」
美和が目を細めてソフィーに視線を向けた。猫が好きらしい。
「でも床が汚れちゃいます」
「うちでも以前、猫を飼っていたから大丈夫よ。 秋人あきと ......息子がとても可愛がっていて、そこの壁の隅にペットドアまでこしらえちゃって」

ソフィーを抱いて部屋に戻って来た明日美は窓際に立ち、さっきまでソフィーがいた広葉樹を指差した。
「お庭の木とても立派ですね」
「カシワの木ですよ。私が生まれた年に父が植えたんです」
夏雄が苦笑した。
「柏木だからカシワの木、父は言葉遊びが好きな人でしてね。私が子供の時、私の洋服にマジックで720なんて数字を書いたりしていました。夏雄だから 720なつお と言うわけです」
「柏木さん、何とおっしゃいました?」
「夏雄だから 720なつお と」
「もしかして『¥5500000』とはお父様が遺したお金かもしれません。だとすると他の数字の羅列はそのありかを示した暗号かも」
明日美が目を見開き、美和と夏雄が顔を見合わせる。ソフィーが異様な空気を察して「ニャア」と鳴いた。
京は「今、何かが下りてきています」と言った。
( 後編につづく )

登場人物

  • 天ノ川京(あまのがわ・きょう/主人公)

    33歳、マネー誌の編集者。推理小説を愛し推理作家を目指している。趣味は謎解き。優しい性格で妻の明日美に振り回される。

  • 天ノ川明日美(あまのがわ・あすみ)

    34歳、京の妻、フリーのファイナンシャルプランナー。好奇心旺盛で周辺で起きるマネーの謎にことごとく首を突っ込む。

  • ソフィー

    ♀2歳。額にハートの模様がある三毛猫。主人公夫婦の愛猫で出歩くのが大好き。時々、奇妙なモノを拾ってきて、それがマネーの謎を解くきっかけになったりする。

  • 柏木美和(かしわぎ・みわ)

    46歳、明日美の顧客。物置から判じ物のような数字が書かれた紙切れが見つかり、気になって夜眠れなくなってしまう。

  • 柏木夏雄(かしわぎ・なつお)

    48歳、美和の夫。判じ物のような紙切れは父が書いたものではないかと言う。

渋谷 和宏(しぶやかずひろ)

執筆:渋谷 和宏(しぶやかずひろ)

作家・経済ジャーナリスト。大学卒業後、日経BP社入社。「日経ビジネスアソシエ」を創刊、編集長に。ビジネス局長等務めた後、2014年独立。大正大学表現学部客員教授。1997年に長編ミステリー「錆色(さびいろ)の警鐘」(中央公論新社)で作家デビュー。「シューイチ」(日本テレビ)レギュラーコメンテーターとしてもおなじみ。

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