高久家の応接間で京と明日美を出迎えた剛は、目の下にうっすらと
隈
ができていた。温子は見るからに心配げな様子だ。
京は向かいに腰掛けるなり「これから私がいくつか質問しますので、お答えいただけますか?」と剛に聞いた。
剛は訝しげな顔をしたが、京はかまわずに続けた。
「今、土曜日の午後3時です。『日が暮れるまでもう数時間しかない』『まだ数時間ある』。ご主人のお気持ちはどちらに近いですか?」
「それは『もう』に決まっている。日の入りまで3時間もないんだからな」
「人生の残り時間についてはいかがですか? 『もうこれだけしかない』『まだこれだけある』」
「それも『もう』だ。大げさに言えば死へのカウントダウンが始まっている気さえするよ」
「でもご主人はまだ60代半ばですよね。今の男性の平均寿命まで生きるとすれば20年近くあります。先は長いとは思いませんか?」
剛は苦笑し、かぶりを振った。
「君はまだ若いから分からないだろうが、この年になると1年1年が勝負なんだよ」
「ご主人がそのように自分の残り時間について強く意識するようになったのは、恩田さんの死がきっかけだったのではありませんか」
「その通りだ。あいつとは同期で同い年で若い時からずっと一緒だったからな」
「やはりそういうことでしたか」
京は満足げにうなずいた。
「今、百パーセント、下りてきました」
京はこちらを見つめる明日美と温子に視線を返し、剛に向き直った。
「ご主人の不眠と、会社で同期だった恩田さんの死には関係があったんですね。妻に聞きましたが、ご主人は50代初めから株や投資信託にも投資するようになり、今では新興国の企業の株のような
高
リスク
高
リターンの金融商品も購入されているそうですね。最近は世界的に株価の乱高下が激しくて、やきもきしているんじゃないかとも聞きました」
「その通りだ」
「だとすれば、ご主人は、恩田さんの死をきっかけに自分の残り時間について意識し始めたことで、株価や投資信託の下落によって資産を失う不安を募らせ、眠れなくなってしまったのではありませんか? 株や投資信託は元本が保証されないので資産を目減りさせるリスクがあります。人生の残り時間が『まだこれだけある』と思えれば、資産が目減りしても『いつかは取り戻せるだろう』と期待できますが、『もうこれだけしかない』という思いなら、期待を持ちにくいですよね」
剛は京を見つめ返し、思い当たるふしがあるとばかりにうなずいた。
「君の言う通りだ。最近、株や投資信託の価格が少しでも下がると『この先、大丈夫だろうか』と不安になって、ひどい時には夜中に焦燥感に駆られて眠れなくなってしまうんだ。どうしてこんなに心配性になってしまったのか、自分でも理由がよく分からなかったが、確かに人生の残り時間を意識するようになったのがすべての始まりだった」
「ご主人は資産の何割を株や投資信託に振り分けていますか」
明日美が聞いた。
「5割前後だね。割合は50代のころからあまり変わっていないと思う」
「5割は多すぎるかもしれませんね。どの程度までなら元本割れのリスクがある金融商品に投資していいのか、その許容度は資産の額や収入、年齢などによって変わりますが、一般的には収入が少なく、年齢が高いほどその割合を抑えて、安全な運用を心がけるべきです」
「本当にその通りだな」
剛は深くうなずいた。
「振り返れば投資を始めた50代の前半は、株価が下がっても『時間が経てばいずれ回復してくれるはずだ』『いざという時には損切りして別の銘柄に投資し、損失を取り戻せばいい』ぐらいに考えていた。あの頃は人生の残り時間を真剣に考えたことなんて、あまりなかったんだな」
剛は遠い目をした。
「恩田に最後に会った時、病床のあいつは私にこう言ったんです。『高久、お前は何事にも強気だけれど、そろそろ前のめり一辺倒の生き方を考え直す時期だと思うぞ』と。私はその言葉を嫌味だと受け止め、こいつは今でも執行役員になった俺に嫉妬しているんじゃないかと勘ぐってしまいました。でもそうじゃなかったんですね。あいつは同期として私のことを本気で心配し、忠告してくれたんです」
2月号の編集作業が完全に終わった翌日、京は代休を取り、仕事の手が空いた明日美と買い物に出かけた。ずっと編集部のオフィスで仕事をしていた京にはショッピングモールの大きなサンルーフから降り注ぐ午後の陽光がとりわけ心地よく感じられた。
「こんにちは!」明日美が驚いたようにすれ違ったカップルに挨拶した。高久夫婦だった。2人とも表情は晴れやかだ。
「よく眠れていますか?」
京の質問に剛は微笑んでうなずいた。
「株を売って元本割れのリスクがある金融商品の割合を減らしてみたんです。持ち株も環境保全のような未来につながる技術を持つ企業の株に買い替えてみました。こう言うと何だか偉そうだけれど、若者や子ども達のことも考えてお金を運用してみてもいいかなと思ってね。いずれ私たちがいなくなっても、この社会は続きますからね」
高久夫妻と別れ、買い物と食事を楽しんだ京と明日美は夜、マンションに帰宅した。その直後にインターホンが鳴り「警察の者です。猫ちゃんをお連れしました」と言った。
ドアを開けると近所の派出所にいる顔見知りの巡査がソフィーを抱いて立っていた。
「この猫ちゃんのお手柄です」
巡査が笑顔で言う。
「高久さんの家に空き巣が入ろうとしましてね。この猫ちゃんが空き巣にとびかかり顔を引っ掻いたんです。空き巣が声を出し、おかげで逮捕につながりました。実は付近で空き巣被害が数件発生しており、通報を受けた我々があたりを巡回していたんです。その後、高久さん夫妻が帰宅されて、天ノ川さんの猫ちゃんだと教えてくれました。ご夫妻、大変感謝していましたよ。後日、お礼に伺いたいとおっしゃっていました。ではこれで」
京は得意げな顔のソフィーを受け取った。
高久剛が「泥棒が俺たちの家を狙っているんじゃないか」と言っていたのは空耳ではなかった。高久夫妻に聞こえた庭の物音はあたりを嗅ぎまわる空き巣の足音だったのだ。