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鏡の中の世界へ(後編)
2019.4.17天ノ川夫妻の事件簿
時刻は午後1時を回っている。午前10時からの編集会議はとっくに終わっただろう。まさか昼近くまで寝過ごしてしまうとは思わなかった。
席に着こうとした京は、編集部の様子が普段とは違うのに気づいた。見知らぬ男が京のデスクを使い、パソコンに向かって仕事をしているのだ。
京は「どういうこと?」という顔で編集部員たちを見回したが、誰も何の関心も払ってくれない。まるで「君はもうこの職場の人間ではないのだよ」とでも言いたげだ。
混乱する京の耳元で「京ちゃん」と呼ぶ声が聞こえた。
聞き覚えのある声だ。
「京ちゃん!」
京は目を開けた。
夢を見ていたのだった。
3月号の校了を終え、代休を取ってソファでぼんやりしているうちに眠ってしまったのだ。
「京ちゃん、あたしのクライアントのことで相談に乗ってほしいんだけれど」
「後でいいかな?
眠いんだ」
「眠気覚めると思うよ。だって謎めいた話だから」
明日美は京の返事を待たずに話し始めた。
「あたしのクライアントに
「何だか穏やかじゃないね。『もうすぐあそこへ行ける』だなんて、まるで自殺を考えているみたいじゃないか」
「由美さんもそれを心配しているのよ。誠二さんは食品メーカーで開発を担当しているんだけれど、仕事が行き詰まってしまっているんじゃないかって」
「確かに『もう投げるしかないか』なんて言うのは、取り組んでいたプロジェクトの達成を放り投げる......つまり諦めるようにも聞こえるよね。」
「でしょう?
それでね、今週の土曜日、由美さんと誠二さんは、誠二さんの50歳の誕生日を祝ってレストランで食事するの。駅前にある『ヴォヤージュ』というフレンチの店よ。由美さん、できればあたしに隣の席に座ってもらって、誠二さんの様子を見てほしいと言うのよ。京ちゃん、付き合ってくれないかな。一緒にヴォヤージュで食事してほしいの。嫌かしら?」
「嫌なわけないだろう?」
京は起き上がった。眠気はとっくに覚めていた。
「僕の人生に必要なのは君とお金と謎だといつも言っているじゃないか」
「それに美味しいフレンチを食べられるしね」
土曜日の午後6時、京と明日美はヴォヤージュのしゃれた西洋風の木製ドアを開けた。
ヴォヤージュで食事をするのは二度目だが、オーナーシェフも、ギャルソン兼ソムリエの妻も二人を覚えていて、奥まった場所のテーブルに案内してくれた。
明日美が由美から壁際の席を取ったと聞き、隣の席を指定したのだ。
京と明日美がワインを飲みながら前菜を食べ始めたころ、由美と誠二が店にやってきた。
京は二人の様子を観察した。
今晩のことは由美とは示し合わせているが、誠二にはもちろん内緒だ。
誠二は細面で短髪をきっちり七三に分けている。表情には生彩が無く、そのせいか50歳という年齢よりもやや老けた感じがする。対照的に由美は少しふっくらとしていて快活な印象だ。
二人は赤ワインで乾杯し、食事を始めた。初めは黙りがちだった誠二だが、いくらか酔いが回り始めたのだろう。次第に口が滑らかになっていった。
京は明日美との会話をやめて、聞き耳を立てた。
話題は近所に住む知人の近況から始まり、やがて二人の結婚生活へと変わっていった。
「結婚してもうすぐ20年になるんだね」
誠二はしみじみとした口調で言う。
「君にはこれまで何にもしてあげられなかったな」
「そんなことはないわよ」
「覚えているかな。新発売した冷凍食品に異物が入っていて、その対応で新婚旅行がおじゃんになったことを......」
「あなただけハワイからとんぼ返りをしたのよね」
「あの時はつくづく宮仕えが嫌になったよ」
会話が唐突に途切れた。誠二が言葉を呑み込み、厨房から出てきて客に料理の内容を説明するオーナーシェフを見つめたのだった。
そう言えば誠二はさっきからしきりにオーナーシェフやその妻の姿を目で追いかけていた。何か気になることでもあるのだろうか。それとも知り合いなのだろうか。
「かわいい猫ちゃんがいるよ!」
ドアを開けて入ってきた常連らしい男性客がオーナーシェフに声をかけた。
「お店の猫ちゃんかな? ドアの前にちょこんと座って、中に入りたそうにしていたけれど......あ!」
「あ!」
京と明日美も同時に言った。
ドアのすき間から店内に飛び込んできたのはソフィーだった。店内を横切ったソフィーは明日美の膝にちょこんと乗って「にゃあ」と満足げに鳴いた。
店内にいる全員が──男性客もオーナーシェフもその妻も、そして誠二もいっせいに明日美に注目した。
「あなたは......たしか妻の......」
誠二が明日美に話しかけた。
「ファイナンシャルプランナーの方ですよね?」
明日美はばつの悪そうな顔をしている由美に目配せして「ええ......偶然ですね」と誠二にぎこちなく笑いかけた。
京、明日美、由美、誠二の4人は一緒に店を出た。時刻は午後9時過ぎ、駅前にそびえるテナントビルの大型ビジョンではテレビのニュース番組が流れている。
誠二が立ち止まり、大型ビジョンを見上げた。
京は誠二と大型ビジョンとを交互に見た。誠二が食い入るように視線を注いでいるのは為替のニュースだった。昨日に比べてさらに対米ドルで円高が進んだとニュースは報じている。
駅前の交差点で誠二・由美夫妻と別れた後、京はしばらく考え込み、明日美に聞いた。
「誠二さん『もう投げるしかないか』と独りごとを言っていたそうだけれど、『投げる』という言葉、投資や運用でも使ったりするよね?」
「ええ、損を承知で株や債券などを売る時に『投げる』と言うことがあるわ」
「やはりそうか」
京は立ち止まり、うなずいた。
「今、何かが下りかけてきている」
( 後編につづく )
天ノ川京(あまのがわ・きょう/主人公)
33歳、マネー誌の編集者。推理小説を愛し推理作家を目指している。趣味は謎解き。優しい性格で妻の明日美に振り回される。
天ノ川明日美(あまのがわ・あすみ)
34歳、京の妻、フリーのファイナンシャルプランナー。好奇心旺盛で周辺で起きるマネーの謎にことごとく首を突っ込む。
ソフィー
♀2歳。額にハートの模様がある三毛猫。主人公夫婦の愛猫で出歩くのが大好き。時々、奇妙なモノを拾ってきて、それがマネーの謎を解くきっかけになったりする。
横沢由美(よこざわ・ゆみ)
46歳、明日美のクライアント。夫が自殺を考えているのではと心配になり、明日美に相談を持ちかける。
横沢誠二(よこざわ・せいじ)
50歳、由美の夫。食品メーカーで開発の仕事を担当。「もうすぐあそこへ行ける」などとつぶやき、妻の由美に心配をかける。
執筆:渋谷 和宏 (しぶやかずひろ)
作家・経済ジャーナリスト。大学卒業後、日経BP社入社。「日経ビジネスアソシエ」を創刊、編集長に。ビジネス局長等務めた後、2014年独立。大正大学表現学部客員教授。1997年に長編ミステリー「錆色(さびいろ)の警鐘」(中央公論新社)で作家デビュー。「シューイチ」(日本テレビ)レギュラーコメンテーターとしてもおなじみ。