一週間後、京と明日美は誠二・由美夫妻の自宅マンションを訪ねた。
京たちの来訪の意図が分からず怪訝な顔をする誠二に、京は「誠二さんの様子がこのところおかしいと由美さんは心配していて、妻の明日美に相談を持ち掛けていたんです」と事情を説明した。
「誠二さん、単刀直入に聞きますが、もしかして由美さんに黙って値下がりのリスクがある金融商品に投資していませんか」
「え!?」
「それは外貨ではありませんか?」
誠二は驚いた顔をした。
「どうしてそれを知っているんですか?」
「知っているわけではなく、あくまで僕の推理です。というのも誠二さんは先週、大型ビジョンに流れる為替のニュースを熱心にご覧になっていましたよね。それから誠二さんは『もう投げるしかないか』と独りごとを言っていたそうですが、損を承知で金融商品を売る時に『投げる』と言ったりします。それで誠二さんは外貨での運用成績が気になって仕方がないんじゃないかと思ったんです」
「恐れ入りました。そこまでお見通しだとは......」
誠二はうなずいた。
「2年半ほど前に米ドル建ての債券を買いました。利回りがおよそ2.5%と、預貯金はもちろん円建ての債券よりもずっと高いですし、ドル高・円安になれば為替差益も取れますからね。でも失敗でした。為替は相場思惑とは異なり、この2年半ほどで1ドル=117円台後半から110円台へと円高に振れて、為替差損を被ってしまいました。今は利金を入れたトータルでも評価損が出ている状態です」
「ご主人はなぜ米ドル建ての債券を買おうと思ったんですか? 何か目的がおありだったんですか」
明日美が聞いた。
誠二は照れくさそうな顔をして言いよどんだが、心配げな由美の顔を見て真顔になった。
「来年、私たちは結婚20周年を迎えるんです。それで来年の結婚記念日に、外貨の運用益で妻にサプライズプレゼントをしようと考えていたんです。結婚して以来、私はずっと食品メーカーでの開発の仕事に追われて、妻をねぎらうことが何一つできませんでした。食品メーカーは競争が厳しくて、並大抵の努力では他社に勝てる商品を生み出せませんから」
「どんなプレゼントを考えていてくれたの?」
由美が聞いた。
「屋久島や奄美大島を回る豪華客船の旅なんかいいんじゃないかなと思っていたんだ。君は屋久杉を見てみたいとよく言っていたからね」
「それで誠二さんは『もうすぐあそこへ行ける』などとつぶやいたりされたのですね」
京が言う。
「そこまでご存知でしたか」
誠二は苦笑した。
「私たちは海外旅行どころか長い国内旅行さえしたことがなかったので、順調に運用の成果が出ていた時には『船旅をプレゼントできる』と考えるだけでわくわくしてしまったんです。しかし、ぬか喜びでした。やがて為替相場が対米ドルで円高に振れ出して、旅行に行く運用益どころか、評価損が出てしまい、これ以上の損失を防ぐためには損を覚悟で売った方がいいのではと考えるようになったんです」
「それで『もう投げるしかないか』などと独りごとを言われたんですね」
京の質問に誠二はうなずき、由美を見た。
「申し訳なかったね。サプライズプレゼントを贈って喜んでもらうつもりだったのに、逆に心配をかけてしまった」
由美は優しくかぶりを振った。
「あなたのその気持ちだけでも嬉しいわ」
「あの......ご主人は本気で『投げる』つもりですか?」
明日美が口を挟んだ。
「お持ちの債券は償還が近いんですか?」
「いえ、購入したのは新規に発行された新発債ですから、償還までにはまだ7年以上あります」
「だったら長期保有を考えたらどうでしょう? 一般的に外貨での運用は短期のモノサシで測ると為替リスクが大きく見えますが、長いモノサシで測ると、つまり長い目で見るとリスクの幅は小さくなっていくんです。なぜなら今は円高に振れていても、いずれ円安に傾く可能性があるからです」
「今は売るべきではないと?」
明日美はうなずいた。
「ファイナンシャルプランナーとしてそう進言したいですね。それに米ドルに限らず、外貨を保有すると、その国の景気や経済に関心を持つようになり視野が広がります。ご主人もそうではありませんか?」
「確かに新聞などでアメリカや世界の経済の記事をよく読むようになりました」
「だったらなおさらです。ぜひもうしばらく保有してみてください」
誠二は明日美と由美を交互に見て、コクリとうなずいた。

誠二・由美夫妻の自宅マンションを出たところで明日美は笑みを浮かべ、「一件落着ね!」と言った。
「そうだね......」
「何だかスッキリしない顔ね」
「そうだね......」
誠二がこの1、2カ月間ずっとおかしかった理由は、米ドル建ての債券の評価損だけが理由だったのだろうか。
由美によれば、誠二はため息ばかりついて、何か話しかけても上の空だったと言う。債券の評価損だけでそこまで精神的に追い込まれてしまうものだろうか。それに為替相場が対米ドルで円高に振れたのはこの1、2カ月ではなく、もっと前からなのだ。
気になることはまだある。先週、ヴォヤージュの店内で誠二はしきりにオーナーシェフやその妻の姿を目で追いかけていた。あれは何だったのだろう?

4月号の編集作業がいよいよ佳境に入ろうとしていた金曜日の朝、京は新聞を取ろうと手を入れたマンションのポストにしゃれたデザインの封筒が投函されているのに気づいた。差出人は横沢誠二だ。
封を開けた京は部屋に戻り「今、完全に下りてきた!」と明日美に言った。
封筒に入っていたのは京のマンションの近所にオープンしたイタリアン・レストランのクーポン入り招待状と、誠二の自筆の手紙だった。
手紙にはこう書かれていた。「私、この度、勤務する食品メーカーがアンテナショップとして開業するイタリアン・レストランの店長に異動となりました......」

その夜遅く、京は明日美とともにイタリアン・レストランを訪ねた。
客はすでにまばらで、店長の誠二はすぐに二人に気づき、「いらっしゃいませ!」と笑顔で挨拶した。表情には生気が蘇り、白い制服が眩しく見える。
テーブルに着いた京はおしぼりを持ってきてくれた誠二に「奥様が心配するほど様子がおかしかったのは、今回のご異動のこともあったんですね?」と聞いた。
誠二は深くうなずいた。
「会社からアンテナショップの店長をやってみないかと打診されましてね。私、50歳で職種転換ができるだろうかと不安になってしまったんです。あまりにリスクが大きい転身じゃないかって。ちょうどリスクを取って運用していた米ドル建て債券が為替差損を出てしまったこともあって、リスクに尻込みしていたんですね。でも『長い目で見たらリスクの幅は小さくなる』と明日美さんに言っていただいて、何だか目の前が明るくなりました。今の時代、65歳はおろか70歳まで仕事人生は続くかもしれない。人生100年時代なんだから、長い目で見たら転身も悪くないなって思えるようになったんです。外貨での運用で視野が広がったように、新しい仕事もきっと視野や経験の幅を広げてくれるはずですからね」

天ノ川京のマネーコラム

外貨での運用には長期の視点が大切

外貨での運用には円建ての金融商品にはない魅力がいくつもあります。海外に目を向けると、超低金利が続く日本よりも金利の高い国や地域は先進国、新興国を問わずいくつもあります。また金利が高く、経済成長を期待できる国や地域の通貨は円に対する為替相場が上昇する可能性があります。小説の中で横沢誠二が高い利回りと為替差益を期待して米ドル建ての債券を購入したのは合理的な選択でした。
しかし外貨での運用には一方でリスクもあります。円に対する為替相場が下がると為替差損が発生し、その下落幅によっては金利分を入れても評価損が出てしまうこともあります。誠二が直面したのはまさにこのリスクでした。
運用に当たって大切なのは、明日美が言うように長期の視点でしょう。短期で運用しようとすると、短期的な為替変動の影響を受けやすく、どうしても高リスク高リターンになりがちです。しかし長期になればなるほど為替相場の変動が平準化されるので、安定した運用成果を得られる可能性が高まります。
加えて外貨で運用すると、その国の経済や政治、その国に影響を与えるグローバル経済の動向にも関心を持つようになり視野が広がるメリットもあります。これもまた外貨での運用の魅力だと言えるかもしれません。

登場人物

  • 天ノ川京(あまのがわ・きょう/主人公)

    33歳、マネー誌の編集者。推理小説を愛し推理作家を目指している。趣味は謎解き。優しい性格で妻の明日美に振り回される。

  • 天ノ川明日美(あまのがわ・あすみ)

    34歳、京の妻、フリーのファイナンシャルプランナー。好奇心旺盛で周辺で起きるマネーの謎にことごとく首を突っ込む。

  • ソフィー

    ♀2歳。額にハートの模様がある三毛猫。主人公夫婦の愛猫で出歩くのが大好き。時々、奇妙なモノを拾ってきて、それがマネーの謎を解くきっかけになったりする。

  • 横沢由美(よこざわ・ゆみ)

    46歳、明日美のクライアント。夫が自殺を考えているのではと心配になり、明日美に相談を持ちかける。

  • 横沢誠二(よこざわ・せいじ)

    50歳、由美の夫。食品メーカーで開発の仕事を担当。「もうすぐあそこへ行ける」などとつぶやき、妻の由美に心配をかける。

渋谷 和宏(しぶやかずひろ)

執筆:渋谷 和宏(しぶやかずひろ)

作家・経済ジャーナリスト。大学卒業後、日経BP社入社。「日経ビジネスアソシエ」を創刊、編集長に。ビジネス局長等務めた後、2014年独立。大正大学表現学部客員教授。1997年に長編ミステリー「錆色(さびいろ)の警鐘」(中央公論新社)で作家デビュー。「シューイチ」(日本テレビ)レギュラーコメンテーターとしてもおなじみ。

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