「分散投資について分かりやすく書いていたあの本、どこに置いたかな...?」

きょう はパソコンのキーボードを打つ手を止め、壁の書棚を見上げた。目当ての本は一番上の段にあった。

京は、出版社でマネー誌の編集者を務めている。今日は土曜日で休みだが、明後日の締切に間に合わせるため、自宅の書斎で7月号の特集の原稿を書いているのだ。

京は腰を上げ、 明日美 あすみ がコーヒーを置いてくれた一本足のカフェテーブルに足をかけ、書棚に手を伸ばした。

書斎のドアが突然開いた。

「京ちゃん、何やっているの!」
「ああっ!」

驚いてバランスを失いかけた京を、明日美が何とか支えた。

「カフェテーブルを踏み台なんかに使わないでよ!」
「ちょうどいい高さだったから...」

「納戸に脚立があるでしょう?
それよりも聞いてほしいことがあるのよ」
明日美が切迫感を顔に漂わせた。

「あたしのクライアントに、 一ツ木順子 ひとつぎ じゅんこ さんという50代半ばの主婦がいるの。
さっき順子さんから電話がかかってきて、息子さんのことで大変な相談を受けたのよ」

「息子さん、 大介 だいすけ くんって言うんだけど、昨年大学を卒業してIT系の企業に就職したの。
就職をきっかけに自宅近くにアパートを借りて一人暮らしを始めたんだけれど、彼の留守中に順子さんが部屋を掃除に行ったら、とんでもない物が出てきたと言うのよ...」

京は食い入るように明日美を見つめて次の言葉を待った。

「机の上に、円やドルやトルコリラとかのお札が、何枚も置いてあったんだって」

「それだけじゃないの。机の下の段ボール箱の中に、他にも外国の紙幣みたいな...印刷したようなお金が、何種類も、何百枚も入っていたと言うのよ...」

「まさか...偽札?」

「順子さんもそれを心配しているのよ。あたしが知っている大介くんは、そんなことに手を出すような人には見えなかったけれど。
最近ではインターネットを通して悪い人と知り合いって、仲間に引き込まれるなんてこともあったりするでしょう?
順子さん、大介くんもそんなことになってしまったんじゃないかと言うの...」

「というのも最近、大介くんが仲間らしい人たちとケータイで頻繁にやりとりしているのを、何度か聞いたんだって」

「順子さんは、大介くんに問いたださないの?」
「怖くて聞けないと言うのよ。
それで、あたしに大介くんに会って問いただしてほしいと頼んできたの!
京ちゃん、その細腕を貸してくれないかな?
嫌かしら?」

「嫌なわけがないだろう?
僕の人生に必要なのは君とお金と謎だと、いつも言っているじゃないか」

―翌日の夕刻、京と明日美は駅前にある喫茶店で、大介と待ち合わせた。
明日美が大介に電話をかけ、母親が心配しており、会ってほしいと頼まれたことを伝えたのだ。

約束の五分前に店に着くと、奥のテーブルにいる若者がこちらを見て会釈した。

「母がお世話になっています。
なにかご心配をかけてしまったようで、申し訳ありません」

大介は、顔見知りの明日美に頭を下げ、「初めまして」と京に挨拶した。礼儀正しく、爽やかな印象の好青年で、とても悪い仲間に加わっているようには見えない。

「単刀直入に言うわね」
注文を取りに来たウェイターが遠ざかるのを見て、明日美は声を潜めて言った。

「お母さまは大介くんが悪い仲間に引き込まれて、偽札作りに加わっているんじゃないかと心配しているの」
「え!偽札ですか!?」

明日美は順子から聞いた話を伝えた。
大介は、明日美と京を交互に見て、ため息をついた。

「母の心配性ぶりには困ったものですね。
母が見つけたのは 玩具 おもちゃ の紙幣です」

大介はスマホを出し、写真を二人に見せた。
薄い唐草模様の地に数字を印刷した長方形の紙が写っている。確かに玩具の紙幣にしか見えない。

ウェイターが飲み物を運んできた。京はウェイターが立ち去るのを待って聞いた。

「玩具の紙幣は何のために作ったんですか?」

大介は何か言いかけたが、言葉を呑み込み「それは言えません」と答えた。

京は、大介の表情がわずかに揺れたのを見逃さなかった。大介は一瞬、理由を言いたげな顔になった。それなのになぜ慌てて口をつぐんだのだろう。

考えを巡らせた京はふと思いつき「大介くんは大学の学部はどちらですか?」と聞いてみた。

大介はきっぱりした口調で「教育学部です」と言った。

帰宅した京は、すぐにパソコンを立ち上げ、地元のNPO(非営利団体)や企業などが開催するイベントのポータルサイトを検索し始めた。地元でどんなイベントが開かれるのかを調べ始めるためだ。

「やはりそうか!」
今週末に近所の公民館で開かれるイベントの題名を見た京は思わず声を出した。

明日美が部屋に入ってきて、きょとんとした顔をする。
京は「今、何かが下りかけてきているんだ」と言った。

―土曜日の午前九時五十分、京は明日美とともに近所の公民館を訪れた。
公民館にはすで順子が来ていて、二人がロビーに入ると待ちかねたように近づいてきた。

「大介がなぜ玩具の紙幣を作ったのか、その理由が本当にここにあるんですね?」
「ええ、答えは奥の会議室にあります。
行きましょう。
そろそろ始まるはずです」

会議室の前に立った京は、『親子で学ぶお金の授業 第一回 為替とは?』と書かれた張り紙のあるドアを開けた。

会議室には、十数人の子ども達──中学生や高校生と、親御さんらしいほぼ同数の大人が集まり、三人の若者が講義の準備をしていた。その一人は大介だった。

「大ちゃん!」「母さん!」
大介と順子が同時に驚いた顔をした。

京が順子に言う。
「これから始まるイベント『親子で学ぶお金の授業』は、子ども達にお金のリテラシーを教えるNPO"ミライマネー"の主催で、大介くんはその一員なんです。
大介くんは、大学の仲間とNPOを立ち上げたようですね」

―授業が始まった。テーマは為替だった。
大介たちは玩具の紙幣を使い、子ども達に為替相場とは複数の通貨の間の交換レートであること、それらは日々刻々と変わっていることを説明する。

難しいテーマだが大介たちの話は分かりやすく、子ども達は皆、興味深げだ。

「この為替相場の動きを利用して、利益を上げることもできるんですよ」
大介はお金の運用についても話し始めた。

「円を米ドルに替えて、ドル高つまり米ドルが円に対して高くなった時に、円に戻すんです。ドルが上がった分、円が増えていますよね。
ただし、これには危険も伴います。
逆に米ドルが下がってしまったら、円に換えた時に金額が減ってしまいますよね。
これを為替リスクと呼びます」

「為替リスクは、米ドルやオーストラリアドル、ユーロなどに分散して投資することで抑えることができるんですよ...」

「一件落着ね」
明日美が言った。

順子もほっとした表情でうなずいたが、京は返事をしなかった。すっきりしないのだ。

大介はなぜ、玩具の札を作った理由について「それは言えません」と答えたのだろう?
隠す必要などどこにもないはずなのに......。

( 後編につづく )

登場人物

  • 天ノ川京(あまのがわ・きょう/主人公)

    33歳、マネー誌の編集者。推理小説を愛し推理作家を目指している。趣味は謎解き。優しい性格で妻の明日美に振り回される。

  • 天ノ川明日美(あまのがわ・あすみ)

    34歳、京の妻、フリーのファイナンシャルプランナー。好奇心旺盛で周辺で起きるマネーの謎にことごとく首を突っ込む。

  • 一ツ木順子(ひとつぎ・じゅんこ)

    54歳、明日美のクライアントで息子の大介が悪い仲間に加わってしまったのではと心配になり、明日美に相談を持ちかける。

  • 一ツ木大介(ひとつぎ・だいすけ)

    23歳、大学を卒業してIT系の企業に就職したが、大学の仲間とともにNPOを立ち上げる。それが母親の思わぬ誤解を招いてしまう。

渋谷 和宏(しぶやかずひろ)

執筆:渋谷 和宏(しぶやかずひろ)

作家・経済ジャーナリスト。大学卒業後、日経BP社入社。「日経ビジネスアソシエ」を創刊、編集長に。ビジネス局長等務めた後、2014年独立。大正大学表現学部客員教授。1997年に長編ミステリー「錆色(さびいろ)の警鐘」(中央公論新社)で作家デビュー。「シューイチ」(日本テレビ)レギュラーコメンテーターとしてもおなじみ。

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