日曜日の昼下がり、三毛猫のソフィーと
明日美
がリビングルームのサッシ越しにアパートの庭を見つめている。
8月号の特集原稿の執筆を中断し、小休止しようとリビングルームに入ってきた
京
は「どうしたの?」と明日美に声をかけた。
「子猫がいるの」と明日美が声を潜めて言う。
庭の芝生の上で茶トラの子猫が尻尾をなめている。
京と明日美がその可愛さに見とれていると、ほどなく親猫が現われ、子猫と一緒に庭から出て行った。
二匹と入れ替わるようにドアチャイムが鳴った。
見知らぬ若者が恐縮した顔で玄関前に立っていた。
少し気が弱そうだが、聡明な印象の若者だ。
怪訝な顔をした京に、若者は「私、一ツ木くんと友人の
広野育夫
と申します」と言った。
「一ツ木くんって、一ツ木大介くん?」
「はい、大介とは大学の同級生で、歳も一緒なんです。彼から『
天ノ川
京さんなら力になってくれるから』と言われて......」
一ツ木大介は子ども達にお金のリテラシーを教えるNPO(非営利団体)を大学の仲間とともに立ち上げた若者だ。
大介たちがつくった玩具のお札を、母親が偽札かもしれないと勘違いしたことから、京と明日美は大介と知り合ったのだった。(魔法の杖はどこに消えた?〜人生と投資のリスク分散〜(前編)参照)
「それで......実は天ノ川さんに僕の叔父のことでご相談に乗ってほしいんです。
図々しいお願いだとは分かっています。
でも、ほかに頼れる人がいないんです」
京は振り返り、2人のやりとりを見守っていた明日美と顔を見合わせた。
「ご相談したいのは叔父のお金のことなんです」
ソファに腰掛けた育夫は間を置かずに話し始めた。
一刻も早く相談に乗ってもらいたくてうずうずしていたのだろう。
「叔父は父の弟で
広野寛二
と言います。
年齢は確か52歳です。いつも力が抜けていると言うか、呑気でつかみどころがない人なんですが、その叔父が突然、僕の留学費用を出してやると言い出したんです」
「ちょっと待って......」
明日美が割って入った。
「それっていい話よね」
「そうとも言えないんです」
育夫はかぶりを振った。
「だって叔父にはそんな金銭的な余裕は無いはずなんです」
「ちょっと待って......」
今度は京が口を挟んだ。
「始めから順番に説明してくれるかな?
まず君は留学を希望しているんだね?」
京の質問に育夫は「はい」とうなずいた。
「はい、僕は大学でコンピューター・サイエンスを専攻していて、卒業後はカリフォルニアの州立大学院に留学したいと思っていました。
人工知能
についてもっと学んで、将来は
人工知能
の研究者になりたいと考えていたんです。
でも、いざ留学するためにはどれくらいのお金が必要なのか、希望する州立大学院に問い合わせてみたら、とても僕みたいな学生には無理な金額だと分かりました。
入学金と学費、生活費を合わせて1年目に約300万円、学位を取得するまでの2年間で500万円が必要なんです。
大学に入ってから、バイトでもらったお金をずっと貯めてきたので、200万円近い蓄えはありますが、それではまったく足りません」
「親御さんに借りるわけにはいかないのかな?」
「うちにはそんな余裕はないんです。
父は僕が幼い時に亡くなって、保険の外交員を務める母が女手一つで育ててくれました。
そんな母に留学資金を出してくれだなんて、口が裂けても頼めません」
「その留学費用を叔父さんが出してくれると言ったんだね?」
「はい、先週、僕の家にふらりとやってきて、『留学を希望していたんだって?
いくらかかるんだ?』と聞くんです。
僕が金額を教えたら『そのぐらいなら貸してやるよ』とその場で言い出して......。
以前、話のなりゆきで僕は叔父に『留学したいけれど、お金が無くて諦めざるを得ない』と打ち明けたことがあって、それを覚えてくれていたんです。
叔父の気持ちは嬉しいけれど......でも......」
「彼にはそんな余裕は無いはずなんだね?」
育夫はうなずいた。
「叔父は経営していた印刷会社を数年前に畳み、以来、パートの仕事をしています。
いつだったか『もう少し生活に余裕があるといいんだけどね』と母にぼやいていたこともありました。 それに......」
育夫は言い淀んだが、意を決するように続けた。
「以前、この近くで偶然、叔父を二度ほど見かけたことがあったんです。
表札をちらちら眺めたり、生垣の隙間から家の中を覗き込んだりして、何だか怪しい感じでした」
京と明日美は顔を見合わせた。
「まさか......空き巣狙いを企てているとでも?」
「いえ、そこまでは......でも今、振り込め詐欺とかアポ電強盗とかあるじゃないですか。
叔父はそんなことをする人ではないと分かっていますけれど......でも......」
京はうなずき「二度ほど叔父さんを見かけたと言ったけれど、曜日とか時刻とかに共通点はあった?」と聞いた。
「あれはどちらも大学で二限の授業がある日だったから......月曜日の朝でした」
「叔父さんに留学したい気持ちを話したのはいつ?」
「正月に僕の家で叔父さん夫婦と食事した時です」
「その時、君のお母さんはいたの?」
「いませんでした。台所に食べ物を取りに行っていましたから」
「京ちゃん、叔父さんのこと調べてみたくなったのね」
京は明日美にうなずいた。
「もちろんさ、僕の人生に必要なのは君とお金と謎だと、いつも言っているじゃないか」
月曜日の朝、京は出勤前の時間を使って、育夫が叔父の寛二を見かけたと言う場所に出向いてみた。
アパート前の道を駅方面へと向かい、右折して住宅街の並木道を行く。
30分ほど歩いたが、すれ違うのは子どもを連れた若い母親や高齢の人たちばかりだ。
育夫の叔父に遭遇するのを諦め、アパートに戻ろうと今来た道を引き返した京は、地味なシャツを着た50代の男が周囲を見回しながら近づいてくるのに気づいた。
京はポケットからスマホを出し、育夫から送ってもらった寛二の写真を確認した。
丸顔にくっきりした眉──本人に間違いない。
京の脇を通り過ぎた寛二は、住宅の窓を塀越しに覗き込み、「あ!」と鋭い声を上げた。
門扉に駆け寄り、開けようとしたが鍵がかかっているらしく動かない。
寛二は扉を乗り越え、庭に入っていく。
京もつられて後に続いた。
「
久代
さん!」
寛二がサッシを叩き、部屋でうずくまっている女性に声をかけた。
久代と呼ばれた女性が起き上がり、サッシを開けた。
年齢は70代だろう。顔色はすこぶる良い。
「広野さん......どうしたの? あなたは?」
久代はきょとんとした顔で寛二と京を交互に見た。
( 後編につづく )