「ボランティアとして高齢者の見守りをされていたというのに、空き巣狙いだと勘違いしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
住宅街の喫茶店で
京
は
寛二
に頭を下げた。
「いやいや、勘違いは僕も一緒だから」
寛二は快活に笑った。
「
久代
さん、まさかストレッチをしていたとは思わなかった。
てっきり部屋で倒れているんじゃないかと焦りましたよ。
まあ、でも、何ごとも無くて良かった」
寛二は何度もうなずきながら、コーヒーを美味しそうに飲んだ。
育夫が「呑気でつかみどころがない人」だと言ったように
飄々
とした雰囲気の男性で、52歳という実年齢より若く見える。
「ああ、そうだ、あなた、さっき僕に話があると言っていたよね」
京はうなずいた。
「実は僕が先ほどあの場所に居合わせたのは偶然ではなくて、
広野育夫
くんに相談を持ちかけられたからなんです」
「育夫に相談を?」
「育夫くん、広野(寛二)さんが貸してくれると言った留学費用の500万円をどうやって捻出したのか、心配しているんです」
「心配って、何を心配しているんだい?」
「広野さん、まさか、空き巣狙いとかをしているんじゃないかと」
寛二は爆笑した。
「なるほど、そういうことか!育夫らしいよ。」
「積立投資ですよ。
月々3万円を積み立てて投資信託で運用しているんです。
積立投資ならまとまったお金が無い私にもできるし、普通預金よりもはるかに利回りがいいからね」
「500万円は積立投資で貯めたんですか?」
「その通り、平均利回りが3%だったので11年と数カ月で貯まりましたよ。
ちなみにこれが利回り0.001%の普通預金だと14年かかるそうです」
「失礼ですが、その500万円を育夫くんに貸しても広野さんの生活は大丈夫なのですか?」
「うちは妻と2人だけでね。
妻もパートの仕事をしているので、贅沢をしなければ十分暮らせますよ」
京は安どのため息をついてコーヒーを飲んだ。
これで一件落着だ。
育夫は大手を振って留学できる。
「それに私が敢えて留学費用を用立てようと言ったのには理由があるんですよ」
寛二は続けた。
「育夫の背中を押してやりたくてね。
あいつ、『留学したい』とか言いながら、一方でためらっていると言うか、はなから諦めているようでもあるんです」
「諦めている?」
「育夫は留学のことを母親にはまだ一言も話していないそうです。
大学一年生の時から留学を考えていたと言うのなら、母親に話しても良さそうじゃないですか。
それにね、あいつ、僕が留学費用を用立ててやると言ったら、『叔父さんから500万円もの大金を借りられません』と尻込みしたんです。
もしかしたら、あいつ、留学したい気持ちはあるけれど、一方では新しい世界に出ていくことを怖がっているんじゃないかな」
「そういうことだったんですね」
京は少し気が弱そうな育夫の顔を思い浮かべながら、「今、何かが下りかけてきています」と言った。
翌朝、京と
明日美
が朝食を食べている時、京のスマホが鳴った。
寛二からだった。
昨日、お互いに連絡先を交換したのだ。
「天ノ川さん、育夫に何か言いましたか?」
「ええ、昨晩、直接会って、『叔父さんは積立投資で500万円を貯めたのだから、大手を振って自分の希望を叶えたらいい』と言いました」
「それなのに、何だってあいつ......そうか、やはり怖がっているんだ。
育夫の奴、さっき電話してきて『留学は諦めた。だからお金を用立ててくれる必要はない』などと言うんです」
京はしばらく考えてから「今晩お時間ありますか?」と寛二に聞いた。
その夜遅く、育夫と母の
綾子
が住むアパートに京、明日美、寛二が集まり、リビングルームのテーブルを囲んだ。
京が全員に連絡を取り、「育夫くんの留学ことで話し合いたいことがある」と招集をかけたのだった。
綾子は息子が留学を希望していたとは知らず、京の口から初めて知らされた話に今も驚いている様子だ。
京が寛二に目配せした。
寛二はうつむいている育夫に「なぜ留学をやめるだなんて言い出したんだい?」と聞いた。
育夫は顔を上げ、「叔父さんから500万円もの大金を借りられません」と言った。
「叔父さん、以前、もう少し生活に余裕があればと言っていましたよね。
せっかく貯めた大事なお金です。自分たちのために使ってください」
「僕たちの心配はしないでいいよ。
それに実はお金は僕の兄の
譲一
......育夫の父親への恩返しのつもりだったんだ」
「父への?」
「僕が大学に行けたのは兄のおかげなんだよ。
お金に余裕が無かった父に代わり、6つ違いの兄が大学に行く費用をすべて出してくれてね。
兄は当時の給料のほとんどを僕のために振り向けてくれたはずだ。
その兄は早くに亡くなってしまい、恩返しをすることが叶わなかった」
「だから寛二さんは息子に500万円を用立ててくれると言ったのね」
寛二は綾子に向かってうなずいた。
「僕たちには子供はいないからね。
育夫が留学を希望していると知って、兄に恩返しできるいい機会だと考えたんだ。
だから育夫、お前は俺への気兼ねなしに500万円を未来のために使ってくれ」
「叔父さんの思いは本当に嬉しいけれど、僕の気持ちは変わりません」
寛二と育夫のやり取りを見守っていた京は「今、完全に下りてきました」と言った。
「育夫くん、君はお母さまのことを考えているんだね。
大学を出てすぐに就職すれば、お母さまを楽にしてあげられる。
しかし留学すると就職までに2年......いやアメリカの大学院の入学は10月だから2年半もかかってしまう。
そうまでして
人工知能
を学ぶのは身勝手でエゴイストじゃないか、君はそう思っているんじゃないかな」
「はい......その通りです」
「でも2年や3年なんてあっという間だと思うわ」
明日美が口を挟んだ。
「あたし、ファイナンシャルプランナーの仕事をしていて、長い目で見ることが投資や運用には大切だとつくづく思うの。
叔父様が500万円を貯めた積立投資は良い例だわ。
毎月こつこつと一定額を積み立てていくことで、長期的な視点で投資や運用を行えるわ。
その時々の相場の動きにとらわれて、強気になり過ぎたり弱気になり過ぎたりして判断を誤ることもずっと減らせると思う。
人生にも似たところがあるんじゃないかな。
育夫くんの優しい気持ちはとても素敵だと思うけれど、その時々の感情だけではなくて、時には長い目で自分の進路を考えてみて」
育夫は無言だった。
綾子も表情を揺らしながら何も言わなかった。
「結局、育夫くんの気持ちは変わらなかったね」
自宅への帰り道、明日美が残念そうにつぶやいた。
「どうかな」
京は首をかしげた。
育夫は見ず知らずの京たちのアパートを訪ねてくるだけの積極性も持ち合わせた若者だ。
人工知能
を学ぶ思いが止みがたければ、気持ちを翻してくれるかもしれない。
しかし母のために留学を諦めたとしても、それもまた育夫の立派な決断だろうと京は思った。
三週間後──。
日曜日の昼下がり、ソフィーがリビングルームのサッシ越しに庭を見つめている。
京と明日美は興味を引かれソフィーの隣に立った。
あの茶トラの子猫だ。
以前よりも体がいくらか大きくなり成猫に近づいている。
しばらく尻尾をなめていた子猫はやがて親猫が現われる前に庭を出て行った。
子猫と入れ替わるようにドアチャイムが鳴った。
玄関前に立っていたのは育夫だった。
育夫は吹っ切れたような笑みを浮かべ言った。
「僕、いろいろ考えて、やはり大学卒業後はカリフォルニアの州立大学院に留学して、
人工知能
を学びたいと思います!」