目的地が近づくにつれて
明日美
の歩く速度が増していく。京きょうも引き離されないように歩幅を広げる。
「ラッキー! そんなに並んでいないわ!」
角を曲がったところで明日美が嬉しそうに叫んだ。
ケーキ店「タナハシ」の前に並ぶ客たちの行列は、確かにいつもの土曜日の昼下がりより短いように見える。
京たちが住むアパートの近所に数年前に開店した「タナハシ」は今や人気店で、ショートケーキやモンブランのような定番ケーキだけでなく、独自のアレンジを加えたオリジナルケーキもとても美味しい。
とりわけ暑い夏の季節メニューであるアイスケーキは2人のお気に入りだ。
木調の落ち着いた店内に入った2人は、店の雰囲気がこれまでとは少し違う気がした。
スー・シェフ (2番手のパティシエ)である
緒方純次
が、厨房ではなくショーケースの向こうで接客とレジ打ちをしていて、普段はそれらを担当している寛之ひろゆきの妻、薫子かおるこが厨房にいるのだ。
純次はいつもオーナー兼パティシエである
棚橋寛之
と一緒に、厨房でケーキをつくっていた。
小柄で童顔の純次が、大柄な寛之に指示され、真剣な顔つきでケーキづくりに向き合っている姿は見ていて微笑ましかった。
その純次と薫子の役割が入れ替わっているのは何だか変な感じだ。
「いらっしゃいませ」
京と明日美に気づいた純次が会釈した。心なしか笑みがぎこちない。
「天ノ川さん、いらっしゃい」
寛之が厨房から2人に声をかけた。寛之の表情も硬かった。
汗を拭いながらアパートに戻った2人は、冷房を効かせた部屋でアイスケーキを食べ終えた。
その直後、待ち構えていたように明日美のケータイが鳴った。
「薫子さん!」
明日美が驚いた声を出した。相手はどうやら「タナハシ」の薫子らしい。
明日美は相手と二言三言、言葉を交わし、「大丈夫よ」と言って電話を切った。
「京ちゃん、薫子さんが夕方、うちに来たいと言うの。折り入って相談したいことがあるそうなのよ」
「何の相談だろう?」
「キャッシュレス決済についてだって」
「キャッシュレス決済って、カード決済とか、スマホに表示したQRコードを使った決済とか......」
「そう、現金を使わずに買い物などのお金をやり取りすることよ」
明日美は「タナハシ」で定期的に開かれているケーキ教室に何度か参加しており、薫子とは知り合いだった。
薫子は明日美がフリーのファイナンシャルプランナーをしていることも知っていたのだ。
夕刻、アパートを訪ねてきた薫子は純次や寛之と同様、浮かない表情をしていた。
色白で整った顔立ちをしており、寛之とはまるで美女と野獣のカップルだと揶揄する客もいたが、今日はどこか生彩に乏しい。
「実はうちの主人がキャッシュレス決済を店に入れたいと言い出したの」
ソファに腰掛けた薫子が口を開いた。
「タナハシに?」
京と明日美が同時に聞いた。
「ええ、うちはこれまでお客さまのお支払いは現金のみだったんだけれど、『カード決済も受け付けよう』『スマートフォン決済にも対応できるようにしよう』なんて突然言い出して......」
「いい話じゃないですか!」
京が言った。
「あたしも賛成よ。キャッシュレス決済はお店にもお客にもメリットがあるわ」
明日美も続ける。
「お店にとってはスタッフの負担を軽減できるし、お客の情報を管理しやすくなるわ。手持ちのお金が足りなくても買い物できるので、お客の買い物を後押ししてくれることもあるはずよ」
「お客にとっても会計時の時間のロスが省けるし、ポイントも獲得できます」
京が付け加えた。
「それはそうなんだけれど......」
薫子は顔を曇らせた。
「うちの主人はずっと『手で触れられるモノ以外は信じられない』と言っていたの。
キャッシュレスって、カード決済にしてもスマホ決済にしても、その場で現金のやりとりをするのではなく、買い物の後で、お客さまの口座からお金が引き落とされるわけでしょう?手で触れられるお札や硬貨の受け渡しがないでしょう?
『だから信じられない』と主人は言っていたの」
「考えを改めたんじゃないかしら?
今、スマホ決済を中心にキャッシュレス決済がどんどん普及しているのよ。
それに政府は今年10月の消費税増税に合わせて、キャッシュレス決済で買い物をした時、最大5%のポイントを還元する方針を発表しているわ」
「それならいいんだけれど......」
薫子はしばらく口をつぐみ、思い切って吐き出すように言った。
「あたし、主人が急にキャッシュレス決済を入れたいと言い出したのは、純次くんを辞めさせたいからではないかと勘ぐってしまうのよ」
「純次くんを!?」
京と明日美が口をそろえた。
「実は2、3週間ほど前から、主人が突然、純次くんに辛く当たるようになったの。
純次くんが何か質問しても、これまでのように自らやって見せたりせず『自分で考えろ!』と突き放したり、食事に誘わなくなったり......。
最近では純次くんを厨房に入れさせず、接客とレジ打ちの担当にしてしまったわ」
京と明日美は顔を見合わせた。純次の笑みがぎこちなく見えたのは気のせいではなかったのだ。
「でも、なぜ寛之さんは純次くんに辛く当たるようになったのかしら?」
「見当がつかないわ。だって主人は純次くんを可愛がっていたのよ。
純次くん、3年前に調理学校を卒業した後、学校の先輩である主人に憧れて『ぜひ「タナハシ」で働かせてほしい』と頼み込んできたの。
あたしたちが払える給料なんてたかが知れているけれど、純次くんはいつも懸命に働いてくれて......。
だから主人も純次くんを見込んで厨房に立たせ、自分の技術を教えていたの」
薫子はそこで言葉を区切り、続けた。
「明日美さんは先ほど、キャッシュレス決済はスタッフの負担を減らせると言ったでしょう?
実際、キャッシュレス決済を入れれば、あたしはレジ打ちや売り上げの集計などの仕事を減らせるわ。
そうなったらもっと長い時間、厨房にいられるので、純次くんがいなくても店を回せると思う。
店を開いて以来、おかげさまでお客さまは増え続けてくれて、今では純次くんがいなければ店を回せないけれど、キャッシュレス決済はそれを解決してくれる──あたしは主人がそんな風に考えているように思えてならないの。
明日美さん、京さん、図々しいお願いだとは分かっているけれど、主人と純一くんの間に何があったのか探っていただけないかしら。今のままでは純次くんがとても可哀想だわ」
「京ちゃん、引き受けてくれる?」
明日美の言葉に京は力強くうなずいた。
「もちろんさ、僕の人生に必要なのは君とお金と謎だと、いつも言っているじゃないか」
( 後編につづく )
- ※2019年9月現在の情報です。今後、変更されることもありますのでご留意ください。