翌日──日曜日の夕刻、京と明日美は閉店間際の「タナハシ」を訪れた。
純次は今日もショーケースの向こうで接客とレジ打ちを担当していた。

2人はショートケーキを買い、いつも以上に保冷剤を入れてもらうように純次に頼んだ後で、「話があるんだけれど……」と純次に言った。
30分後、純次は約束した時刻きっかりに駅前の喫茶店にやってきた。京と明日美に気づいて笑みを浮かべたが、昨日同様どこかぎこちない。

「突然呼び出したりしてごめんなさい」
飲み物を運んできたウェイターが立ち去るのを待って明日美が口を開いた。

「実は昨日、薫子さんと話をしたの。薫子さん、純次くんと寛之さんとの間に何かあったのではないかととても心配しているわ」

「喧嘩でもしたの?」
京が聞いた。

「いえ……」
「じゃあ何があったの?」
純次は何か言いかけたが、出かかった言葉を呑み込み、うつむいた。言おうか言うまいか決心がつかない様子だ。

「薫子さん、『今のままでは純次くんがとても可哀想だ』と言っていたよ。純次くんに心当たりがあるのなら話してくれないかな」

京の言葉に純次は顔を上げた。その表情は揺れていたが、やがて頬を強張らせ言葉を絞り出した。
「みやびホテルからパティシエとして働いてみないかと誘われているんです」

「みやびホテルって、あの大手ホテルチェーンの……?」
純次はうなずいた。

「みやびホテルは来月、この駅前に新しいホテルを開くんです。そこで働かないかと……」

「すごいじゃない! みやびホテルでパティシエとして働けるなんて、大きなチャンスね」
明日美の言葉に純次は曖昧にうなずいたが、その表情は冴えない。

「純次くんはみやびホテルの申し出に対して、どうするつもりなの?」
京の質問に純次はまたうつむいた。

「もしかして迷っているのかな?」
純次はうなずいた。

「僕、今でも寛之さんを尊敬しています。これまでずっと優しくしてくれましたし、薫子さんも温かくて、何だか家にいるみたいな雰囲気なんです」

「純次くんがみやびホテルから誘われている話を寛之さんは知っているのかな?」

「はい、報告しました。それだけじゃなくて『決心がつかない』とも打ち明けました」

京は「なるほど」と言い、二度三度うなずいた。
「純次くん、これから僕が言うことを実行してくれないかな?」
純次が怪訝な顔をした。

「今、何かが下りかけてきているんだ」

その晩、薫子を通して寛之への面会を取り付けた京と明日美は、翌日の夜遅く、閉店後の「タナハシ」を訪れた。
寛之と薫子は売り場の隅にあるソファに腰掛けて2人を待ってくれていた。厨房の明かりは消え、店内は静寂に包まれている。

2人は店に居残ってくれていた寛之たちに礼を言い、「実は純次くんのことでお話したいことがあるんです」と京が言った。
寛之は身構えるような顔をした。

京は、「寛之が純次を辞めさせたがっているのではないか」と薫子から相談を受けたことや、純次から「みやびホテルからパティシエとして働いてみないかと誘われている」と打ち明けられたことを順番に話した。

「妻があなたたちにそんなことを?」
「寛之さん、もしお話しいただけるのなら、真意を教えていただけますか? 寛之さんは純次くんに対してどのように思われているんですか?」
京の問いかけに寛之は唇を噛みしめ、諦めたようにため息をついた。

「こうでもしないと、あいつはいつまでも俺のところで働きたがるからね。千載一遇のチャンスをつかみ損ねてしまう」

「と言うことは、寛之さんは、みやびホテルから誘われ、気持ちが揺れている純次くんに対して裏切られた思いを抱いているわけじゃないんですね!?」
寛之は苦笑した。

「あいつをそんな風に思うはずがないじゃないですか。こんな小さな町のケーキ屋で一生懸命働いてくれたんです」

京はうなずき「今、完全に下りてきました」と言った。

「純次くん、聞いていてくれたかな? 寛之さんは君にチャンスをつかんでほしいと思っているんだ」
厨房の明かりが灯り、寛之と薫子が驚いた顔をした。

純次が売り場に入ってきた。京は昨日、寛之とのやり取りを厨房に身を潜めて聞いていてほしいと純次に頼んだのだった。

「純次くん、良かったじゃない!」
明日美が声をかけたが、純次は表情を曇らせ「嫌です」と声を絞り出した。

「僕はみやびホテルには行きたくありません。ここで働きたいんです!」

「純次くん、君がここで働きたいと言う気持ちはよく分かるよ。寛之さんは尊敬する先輩だし、君にとってここはとても居心地が良い職場だよね。たぶん、寛之さんも本当は君にここにいてほしいんだと思う。
それでも寛之さんは君にチャンスをつかんでほしいと言っているんだ。その真意を汲んであげてくれないかな」

純次は京から顔をそむけて「嫌です」と繰り返した。

「せめてあと1年……」

「チャンスから逃げるんじゃない!」
寛之が怒鳴った。

「お前がここにいても学べることはもうほとんど無いんだ! みやびホテルの方が学べることははるかに多い!
お前自身それが分かっているはずなのに、居心地の良い環境から一歩も前に出ようとしないのはパティシエ失格だ!」

言葉を失い寛之を見つめる純次に薫子が言った。

「純次くんは主人が最近、キャッシュレス決済を店に入れたいと言い出したのを知っているわよね。
主人はね、本当はキャッシュレス決済がきちんとできるのか内心ドキドキなのよ」

純次が何を言い出すのかという顔をする。

「主人はもともと頭の古い頑固な人だし、スマホやパソコンの操作も得意じゃないわ。それでもキャッシュレス決済を店に入れたいと言い出したのは、きっとこう考えたからだと思う。
『純次くんが一歩前に踏み出せるように、俺も一歩前に踏み出そう。新しいことにチャレンジしてみよう』って」

「そうか!」
明日美がうなずいた。

「キャッシュレス決済の導入は、寛之さんにとって純次くんへのエールだったんですね」

「純次くんにとってみやびホテルは未知の世界よね。でも、一時期の不安や迷いに負けないで。長い目で見たら、きっと純次くんにとってプラスだわ」
薫子の言葉に純次はコクリと静かにうなずいた。

翌週の土曜日の昼下がり、京と明日美は汗を拭いながらいそいそと近所にあるケーキ店「タナハシ」に向かった。
目的地が近づくにつれて明日美の歩く速度が増していくのはいつも通りだ。京も歩みを速めたが、客たちの行列は先週より長かった。

20分ほど待って、2人がようやく店内に入ると、ショーケースの向こうで接客とレジ打ちを担当していた薫子が「天ノ川さんたちよ」と厨房に声をかけた。
純次が厨房から出てきて、ショーケースを覗く2人ににっこりと笑いかける。

「こちらのガトーショコラ、いかがでしょう? 僕の卒業作品なんです」

天ノ川京のマネーコラム

クレジットカードやスマホに表示したQRコード、プリペイドカードなどによって、現金を使わずに買い物などの決済を行うことをキャッシュレス決済と言います。
小説の中で明日美と京は「スタッフの負担軽減」や「顧客情報の管理」「会計時の手間の削減」などお店やお客にとってのメリットを挙げていますが、他にも、キャッシュレス決済に慣れた外国人の国内での消費を増やしたり、金銭の授受がデータとして必ず残るので脱税を防ぐ効果があったりするなど、いくつものメリットを経済や社会にもたらしてくれると期待されています。

日本は治安が良いこともあって現金決済の比率が高く、他の主要国に比べてキャッシュレス決済は普及していませんでした。
しかし政府は昨年「キャッシュレス決済の比率を約2割から2027年までに4割以上へとアップさせる」目標を打ち出しました。
今年10月の消費税増税に合わせて、キャッシュレス決済で買い物をした時、最大5%のポイントを還元する方針も発表しており、今後、急速に拡大・普及していくはずです。

買い物はキャッシュレス決済が当たり前──そんな時代はすぐ近くまで来ているのです。

  • 2019年9月現在の情報です。今後、変更されることもありますのでご留意ください。

登場人物

  • 天ノ川京(あまのがわ・きょう/主人公)

    33歳、マネー誌の編集者。推理小説を愛し推理作家を目指している。趣味は謎解き。優しい性格で妻の明日美に振り回される。

  • 天ノ川明日美(あまのがわ・あすみ)

    34歳、京の妻、フリーのファイナンシャルプランナー。好奇心旺盛で周辺で起きるマネーの謎にことごとく首を突っ込む。

  • 棚橋寛之(たなはし・ひろゆき)

    40歳、人気ケーキ店「タナハシ」のオーナー兼パティシエ。店にキャッシュレス決済を導入したいと言い始める。

  • 緒方純次(おがた・じゅんじ)

    23歳、「タハナシ」のスー・シェフ(2番手のパティシエ)。最近、寛之から疎んじられ、辛く当たられている。

  • 棚橋薫子(たなはし・かおるこ)

    37歳、寛之の妻、「タハナシ」で接客とレジ打ちを担当していた。寛之が純次を辞めさせたがっているのではないかと心配している。

渋谷 和宏 (しぶやかずひろ)

執筆:渋谷 和宏 (しぶやかずひろ)

作家・経済ジャーナリスト。大学卒業後、日経BP社入社。「日経ビジネスアソシエ」を創刊、編集長に。ビジネス局長等務めた後、2014年独立。大正大学表現学部客員教授。1997年に長編ミステリー「錆色(さびいろ)の警鐘」(中央公論新社)で作家デビュー。「シューイチ」(日本テレビ)レギュラーコメンテーターとしてもおなじみ。

シリーズの記事一覧を見る

関連記事

キャッシュレス