スペシャル対談
林敏之×古賀由教
「『ヒーローズカップ』から
日本ラグビーの未来に差し込む光」
前編
小学生ラグビーの全国大会である「ヒーローズカップ」が初めて開催されたのは、2009年のことだ。
同志社大学、神戸製鋼で活躍し、第1回、第2回のラグビーワールドカップでプレーした林敏之氏がNPO法人ヒーローズの代表となり、大会を発展させてきた。
そして第3回大会で、芦屋ラグビースクールの一員として優勝したのが古賀由教選手。古賀選手はその後、東福岡高校で高校日本一、早稲田大学では大学日本一を経験し、2021年の春からトップリーグのリコーでプレーをする。
ヒーローズカップの思い出、そしてラグビーでの経験を、世代を超えたふたりに語ってもらった。
林氏と古賀選手の談義は、ラグビーから得られた財産、そして挑戦へと広がっていく。
ヒーローズカップの思い出
そもそもヒーローズカップに林さんが関わるようになったのは、どんな経緯があったんですか。
林:当時は、野球やサッカーのように小学生が日本一を目指す全国大会が、ラグビーにはなかったんです。実は、この大会の前身となる近畿地方のクラブを集めた「マーラーカップ」という大会があり、これを発展させていくためにお手伝いいただけませんか、という話を友人からもらったのが始まりです。
いまでは全国のクラブが参加する大会になりましたね。
林:大きく育ったなあ、という感じです(笑)。
さて、古賀選手のヒーローズカップの思い出は、どんなものですか。
古賀:優勝したことはもちろんのこと、自分がトライをした瞬間は鮮明に記憶しています。でも、いちばん記憶に残っているのは、神戸のユニバーシアード記念競技場でプレー出来たことですかね。普段は使えないスタジアムですし、すごくきれいで、気持ちの良い芝生の上でラグビーが出来たのがいまだに忘れられません。(記事の冒頭にあるのがその時の写真)
林:その言葉はうれしいなあ。大人の役割は「場」を作ることだからね。第1回大会は神戸製鋼の灘浜のグラウンドで開催したんですよ。ユニバの競技場を使わせてもらったのは第2回大会からです。
古賀:その第1回大会に出場していたのが、僕の兄なんです。同じ芦屋ラグビースクールでプレーしていたんですが、決勝で京都のアウル洛南に負けてしまって。その試合を見て、僕もヒーローズカップに出て、そこで優勝したいという気持ちがすごく強くなったんです。
ヒーローズカップの特徴とは
さて、古賀選手のヒーローズカップの思い出は、どんなものですか。
林:古賀君の家はラグビー一家だったね。
古賀:はい。幼稚園の年中組のとき、友だちの原虎之介君の家族に、「古賀君は元気やから、よかったら週末、一緒にラグビーせえへん?」と誘われたのがキッカケでした。スクールに通い始めてから、兄が後から一緒にプレーするようになったんですよ。ちなみに誘ってくれた原君は、東京大学のラグビー部のナンバーエイトでした。
林:他のメンバーもラグビー続けてくれてるね。
古賀:明治大学でウィングだった石川貴大はNTTドコモ、関西学院大学のプロップの小寺晴大は、豊田自動織機でプレーを続けます。林さんの後輩だと、同志社大学の副将のふたり、人羅奎太郎と栗原勘之も同級生です。
ヒーローズカップで活躍した小学生が、成長していますね。この大会で特徴的なのは、観客席からの指示は一切禁止されていることです。いかにもラグビーらしい。
林:スタンドからの声援は大歓迎なのですが、中には熱くなりすぎて大声で指示をするコーチや親御さんもいらっしゃってね。そうなると小学生が萎縮してしまい、それじゃラグビーじゃないということで、第10回大会からは、ベンチやスタンドから指示を出すことを禁止したんです。その結果、小学生であっても、自分たちの判断で試合を進めていく。それは教育的な意味でも、すごく価値があることだと思っています。