スペシャル対談
林敏之×古賀由教
「『ヒーローズカップ』から
日本ラグビーの未来に差し込む光」前編

挑戦について

林さんはラグビーの教育的な価値を重視されていますね。

:もともと、教育の現場から発展してきたものですからね。規律を守る、そして新しいことに挑戦するといった価値が尊ばれるわけです。

ラグビーにおける林さんの「挑戦」には、どのような目標がありましたか。

:僕にはふたつあって、まずは「日本一」になることでした。

林さんは神戸製鋼で日本選手権7連覇に貢献されました。

:周りの仲間にも恵まれて達成できたのはうれしかったね。そしてもうひとつは、オックスフォード大学で「ブルー」を獲得することだったんです。

宿澤広朗さんの思い出

ブルーというのは、ケンブリッジ大学との対抗戦に出場した選手だけに与えられる称号ですね。

:いま思い出すと、オックスフォードでの日々は、ラグビーだけでなく、毎日が挑戦でした。授業は課題となる分厚い本を読んでから、それをもとに先生と「チュートリアル」と呼ばれる問答を繰り返す方式で。これは大変だったね。みんな勉強でいそがしいから、ウェールズに遠征に行く3時間ほどのバスの中で、教科書を読んでいたことを覚えてます。

林さんはオックスフォード大学で、本職のロックではなく、1番にコンバートされていました。

:だって、身長2メートルのロックがいるんだもん(笑)。1番でなんとかポジション取ってね。頑張ったなあ、あの時は。

そして林さんは、第2回ワールドカップで当時住友銀行(現三井住友銀行)に勤務されていた宿澤広朗さんが監督を務めるチームで参加されました。宿澤さんの思い出はありますか。

:いつも、日本は世界とどう戦うか、ということを考えている人でした。宿澤さんが監督に就任したばかりの1989年、秩父宮ラグビー場でスコットランドに勝ったんです。作戦がハマってね。なにがうれしかったって、試合後にファンが外で待っていてくれたこと。みんなが喜んでくれてるから、自分は全員にサインするつもりだった。そしたら、スコットランドのフェアウェル・パーティがあって、僕がいつまでもサインしてるから、宿澤さんがやってきて、「林、行くぞ」って怒られたね(笑)。

生島淳=文、杉山拓也=撮影


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